厳島合戦について

歴史

厳島合戦

織田信長の桶狭間の戦い・源義経の鵯越[ひよどりごえ]の戦いと並び日本三奇襲戦の一つ

1553年主君大内義隆に反旗を翻し、義隆を討った陶晴賢[すえはるかた]に対し、兵を挙げた毛利元就[もうりもとなり]は、翌年、陶軍を次々と破りました。
元就は、兵力的には圧倒的に優勢な陶軍に対し奇襲戦を計りました。
狭い宮島に陶軍を集結させるため宮ノ尾に城を築き、陶軍をおびき寄せました。

1555年10月1日未明、陶軍の二万の軍勢に対し、毛利軍三千五百の将兵は、暴風雨の中、包ヶ浦に上陸し、博打尾根を超え、一気に陶軍の本陣がある塔の岡に攻め下りました。
陶軍はあわてふためき、四方八方に敗走し、晴賢は大江浦[おおえのうら]まで逃げ落ちましたが、もうこれまでと覚悟を決めて自刃いたしました。

「何を惜しみ 何を恨みんもとよりも この有様の定まれる身に」
晴賢公時世の歌

陶晴賢の墓所は、廿日市の洞雲寺にあります。(藝州厳島図絵では、高安ヶ原が自刃の地という)