概要
宮島は、太古からその島の姿と、弥山[みせん]を主峰とする山々と、昼なお暗い原始林に覆われた山容に霊気が感じられたところから、周辺の人々の自然崇拝の対象となっていました。
嚴島神社は、社伝によりますと推古元年(593)に佐伯部[さえきべ]の有力者であった佐伯鞍職[さえきくらもと]により現在の場所にご創建されたと伝えられています。
大同元年(806)に、僧空海(弘法大師)が唐から帰朝し、京の都へ帰る途中に宮島をご覧になり、島から霊気を感じ、ここは霊場に違いないと弥山に御堂を建て、百日間の求聞持[ぐもんじ]の修法をされました。
このとき修法で使われた火が、今なお弥山霊火堂で燃え続けている「消えずの火」です。
久安2年(1146)に、平清盛が安芸守に任ぜられました。
清盛公は、夢枕に立った老僧から「嚴島神社を造営すれば、きっと位階を極めるであろう。」という示現を受け止め、嚴島神社を深く信仰し、当時の寝殿造りを模して造営され、また舞楽を大阪四天王寺から移したほかに、清盛公をはじめ一門により法華経を写経し、清盛の願文[がんもん]と共に奉納された写経が平家納経で、国宝中の国宝と言われています。
このほか甲冑や刀剣をはじめ等美術工芸品を奉納するなど、都の文化を宮島に移しました。また社領を増やすなど厚い庇護をいたしました。
都からは、清盛公をはじめ平家一門のほか、後白河上皇・高倉上皇・建春門院・建礼門院・中宮徳子らの皇族や貴族が社参しています。
平家は壇ノ浦に滅びましたが、その後の鎌倉幕府や室町幕府、地元の領主大内氏や毛利氏、また、豊臣秀吉も篤く信仰し庇護いたしました。
人々が宮島に住み始めたのは、鎌倉時代末と思われます。
初めに、神職や供僧が住み、そして庶民が住み始めたと思われます。
戦国時代、中国地方の有力者であった大内義隆は、宿老の陶晴賢[すえはるかた]の謀反により長門大寧寺[だいねいじ]で自刃してしまいました。
義隆と盟友関係にあった毛利元就は、晴賢に兵を向けましたが、兵力は陶軍がはるかに優勢であったので、策を謀り、宮島の北に位置する宮ノ尾に城を築き陶軍を宮島に誘き寄せました。弘治元年(1555)9月のことです。
陶軍は、2万の兵を宮島に上陸させ、まず勝山城(多宝塔付近)に本陣を置き、続いて宮ノ尾城が良く見える塔の岡に置いて攻めたてましたが、守りが堅くなかなか落とすことができませんでした。元就は、10月1日おりからの暴風と暗闇にまぎれて対岸の地御前[じごぜん]から3千5百の兵を引き連れて密かに包ヶ浦[つつみがうら]に上陸し、塔の岡の背後の尾根である博打尾[ばくちお]に登り、一気に陶の本陣めがけて攻め下りました。
陶軍は、混乱し戦うすべもなく敗走しました。陶軍の勇将弘中隆包(ひろなかかね)は、絵馬ヶ岳(駒ヶ林)に敗走して自刃し、晴賢はわずかな手勢を引き連れ大江の浦に落ち延びましたが、自刃し果ててしまいました。この戦いを「厳島合戦」といい「日本三奇襲戦」の一つといわれています。
毛利氏は、陶氏を滅ぼし中国十カ国のほか豊前や伊予を支配し強大な勢力を誇る戦国大名になりました。
毛利元就・隆元父子は、天神社を創建し、反橋[そりばし]や大鳥居の再建や社殿の廻廊を張り替え、また能舞台を寄進し演能するなど、その後の嚴島神社の発展に大きく寄与しています。
豊臣秀吉は、天正十五年(1587)戦没将兵の供養のため、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に命じて大経堂(千畳閣)を造立いたしましたが、慶長3年(1598)秀吉が亡くなったため、完成間近で工事は中止されました。
完成していれば桃山時代の美術工芸の粋を集めた素晴らしい建物になっていたことでしょう。
江戸時代になると、福島正則が安芸国の藩主となり商業・廻船業を保護いたしました。
続いて藩主となった浅野氏も継承し、宮島は交易の中継基地として発展し、歌舞伎や大相撲・富くじなどが催され、瀬戸内地方文化の中心地としても栄えました。
僧誓真[せいしん]は、広島で米屋を営んでいましたが、一念発起、宮島光明院で仏門に入り了単[りょうたん]上人の導きを受けました。当時から島には多くの貴人・文化人・商人・参拝客が訪れていましたが、これという宮島の産業がないことを嘆き、弁財天の琵琶をヒントに杓子を考案して島民に教え普及いたしました。
また水不足を解消するために井戸を掘り(誓真釣井)、雁木[がんぎ]を造るなど宮島の恩人の一人として今でも慕われ、光明院の近くにはその遺徳を称え誓真大徳碑が建立されました。
慶応元年(1865)尊皇倒幕を推進する長州藩とそれを押さえようとする徳川幕府の間で第二次長州戦争が起こりました。慶応2年(1866)大願寺が休戦交渉の場所となり、幕府海軍奉行勝安房守(勝海舟)と長州の広沢正臣らで休戦会談が行われました。
明治元年(1868)神仏分離令が発令され、廃仏毀釈[はいぶつきしゃく]運動が起こり、宮島に多くあった寺院が廃寺となりましたが、主な7ヶ寺が残り、嚴島神社や千畳閣・五重塔にあった仏像が寺院に移されるなど少なからずの混乱がありました。
明治8年(1876)に傷みの進んでいた大鳥居が建て替えられました。何年もかかって主柱となる材料(楠の自然木)を探し出し、宮崎県の現在の西都市と香川県の丸亀市から調達し、他の部材は広島市や宮島内で調達し再建されました。
初代の総理大臣伊藤博文(1841~1909)は、弥山三鬼大権現を篤く信仰し宮島をたびたび訪れています。弥山三鬼堂や大願寺の掲額(現在は歴史民俗資料館に展示)は、伊藤公の直筆といわれています。また、伊藤公は浄財を集め、私財をあてて、弥山登山道を整備いたしました。
大正12年(1923)宮島全島が国の史跡名勝に指定され、昭和25年(1950)には瀬戸内海国立公園に指定され、また平成8年12月には、嚴島神社が原爆ド-ムと共にユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録されました。
嚴島神社は、ご創建以来、台風や落雷などの自然災害や厳島合戦・神仏分離令などのため、再建・修復の繰り返しで今日の姿があります。
記憶に新しいのは、平成3年の台風19号・平成12年の台風18号・平成13年の芸予地震・平成16年9月台風18号で被災したことです。
嚴島神社は、漁師や船乗り・商人等の篤い信仰を受け、またその時代の有力者の庇護により守られてきました。
現代においては、国宝・重要文化財の建造物は国や県の補助を受けると共に、寄付金などの浄財によって修復されています。