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公開日:2024/06/21 最終更新日:2024/07/16
明治時代、日本の近代化を大きく進めた初代内閣総理大臣の伊藤博文。
じつは、弥山を愛し抜き、山の守り神 三鬼大権現を強く強く信仰していたのをご存じですか?
もちろん、伊藤博文は何度も宮島に訪れています。
以下は伊藤博文の人生の略歴表。主に以下の赤アンダーライン部分で宮島とかかわっています。
西暦 | 年齢 | 主なできごと |
---|---|---|
1841 | 生まれ | 鹿児島藩に生まれる。 |
1863 | 22歳 | 米国へ留学。 |
1867 | 26歳 | 帰国後、佐賀藩士として活動。 |
1868 | 27歳 | 明治維新後、政府要職に就任。 |
1885 | 44歳 | 内閣制度発足に伴い初代内閣総理大臣に就任。 明治天皇とともに宮島を訪問。 |
1894 | 53歳 | 日清戦争を指導。 |
1896 | 55歳 | みやじまの宿 岩惣 宿泊 |
1901 | 60歳 | 日英同盟を締結。 |
1906 | 65歳 | みやじまの宿 岩惣 宿泊 弥山登山道の修復を浄財・私財を投じて整備 |
1909 | 68歳 | 韓国併合に関わる。 |
1912 | 71歳 | 死去 |
では、具体的にどのようなかかわりを持ってきたのか?宮島のどんなところが好きだったのか?
この記事では、宮島と伊藤博文の関係のすべてがわかります!
伊藤博文は宮島、とりわけ霊峰 弥山 の熱狂的なファンでした。
山頂の景色を絶賛したり、登山道を私財で整備したり、三鬼大権現を厚く信仰したり・・・
ひとつひとつ順に解説していきます。
伊藤博文は弥山山頂から見えるバツグンの見晴らしの虜だったそう。
じっさい、次のような言葉を残しています。
「日本三景の一の真価は頂上の眺めにあり」
※日本三景というのは、宮島のことを指しています。
現代の弥山山頂と伊藤博文の生きていた明治時代の弥山山頂は、山頂の展望台の有無を除けばほとんど様子が変わってないはずです。
なので、みなさんも山頂まで行けば、伊藤博文が感動したのと同じ風景をご覧いただけます。
伊藤博文はとても強く弥山を信仰していました。
弥山は太古の昔から山そのものが信仰対象。遠くから見た宮島(弥山含む)は、観音さまの寝姿に見えるとも言われています。
伊藤博文は弥山のすばらしさをみんなに知ってもらうため、公費ではなく自分でお金を出して登山道の整備まで行っているんです!!
なんと、自費で出資したのは現在の価値にして2,500万円相当(当時7,000円)だったそう!
よほど弥山に強い思いを持ち、信仰していたことがおわかりいただけると思います。
なお、大聖院境内の自然石に伊藤博文の言葉が碑文として残されています。
三鬼大権現とは、弥山の守護神とも呼ばれる鬼の神さまです。
三体の鬼神様からなり、それぞれ時媚鬼神(じびきじん)、追帳鬼神(ついちょうきじん)、摩羅鬼神(まらきじん)と呼ばれます。神仏習合を強く体現した鬼神様でもあり、その本来のお姿は大日如来、不動明王、虚空蔵菩薩の三体であると云われています。
引用元:大聖院
伊藤博文は三鬼大権現への信仰がとても深く、何度も何度も参拝しています。
なお、三鬼大権現へお参りするには、弥山の8~9合目にある“三鬼堂”まで行く方法もありますが、時間面・体力面で余裕のない人は、大聖院の“摩尼殿”でもお参りできます!
三鬼堂ちかくの弥山本堂にある掲額は、伊藤博文の直筆によるものです。
もみじ饅頭が生まれたエピソードとして、伊藤博文が茶屋で若い娘さんに言った冗談がもとになった説があります。
エピソードの舞台は紅葉谷公園にあった茶屋。
👧(茶屋の娘)「はい、どうぞ、お茶です」
👴(伊藤博文)「この紅葉のような可愛い手を食べてしまいたい」
というやり取りがあったそう。
このエピソードの舞台となった茶屋の近くには、伊藤博文がときどき宿泊していた旅館 岩惣(現在も宮島で営業中)があり、「この逸話、もしかしたら本当なのかも…」と思わされてしまいますね!
本エピソードは、諸説ある中のあくまで一説です。
現在は、残念なことに松くい虫の被害によって枯れてしまいましたが、かつては大願寺境内には伊藤博文のお手植えとのいわれる“九本松”がありました。
天を突き破るように高くそびえたつ、それはそれは立派な松でした。
九本松が伊藤博文のお手植えとされるのは、口伝えに大願寺住職に代々伝わるものではありますが、大願寺には伊藤博文が残した扁額(詳細は大願寺ホームページ)が残るほど伊藤博文が熱心に宮島に通い、信仰を深めていたことがうかがい知れます。
伊藤博文は弥山を強く愛し、宮島に何度も訪れたことがおわかりいただけたと思います。
弥山以外の伊藤博文のエピソードとして、もみじ饅頭が生まれるきっかけが伊藤博文の冗談が元になったとの説があります。
また、かつて存在した大願寺の九本松は、伊藤博文のお手植えとの口伝も残っています。
さまざまなエピソードから、伊藤博文が宮島に強くかかわっていたことがうかがい知れます。
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