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宮島と豊臣秀吉のかかわりを紹介!島内に豊国神社・波切不動明王など現存資料もアリ

公開日:2024/06/18 最終更新日:2024/06/21

安土桃山時代の武将で、天下人として知られる豊臣秀吉。

貧しい出自から織田信長に仕え、その武勇と政治手腕で頭角を現し、日本の統一を成し遂げました。

そして実は、豊臣秀吉は宮島にもゆかりのある人物なのをご存じでしょうか?

以下の表は秀吉の人生の略歴表です。主に50代(赤のアンダーライン部分)で宮島と関わりがあったことがおわかりいただけます。

年号年齢出来事
天文6年(1537年)0歳秀吉誕生
天文12年(1543年)6歳父親が亡くなる
弘治2年(1556年)19歳織田信長に仕え始める
永禄3年(1560年)23歳織田信長の家臣として活躍
永禄11年(1568年)31歳織田信長が京都に入り、室町幕府打倒の動き本格化
天正元年(1573年)36歳織田信長が将軍となり、秀吉も重用される
天正10年(1582年)45歳本能寺の変で信長が亡くなり、天下統一を目指す
天正15年(1587年)50歳嚴島神社に参り、大経堂(のちの豊国神社)の建立開始
大正18年(1890年)53歳大聖院で大規模な和歌会を開催
文禄元年(1592年)55歳朝鮮への文禄・慶長の役を開始する
慶長3年(1598年)61歳死去(享年62歳)

なお、豊臣秀吉が宮島と関わりをもったことがわかる神社や仏像は、今でも島内にしっかりと現存しております!

順に解説させていただきます。

豊臣秀吉 × 豊国神社

豊国神社は豊臣秀吉の命によって建てられました。

もともとは、大経堂(お経を読む超大規模なお堂)として使う予定でしたが、完成する一歩手前で秀吉が亡くなったため、途中で建設は中断され、今でも未完成のままです。

ところで、なぜお経を読むお堂が必要だったのか?

それは、武将である秀吉のもとで、たくさんの将士たちが亡くなっていったから。彼らを供養をする必要があったわけです。

毎月一度、千部経を読む予定だったそうです。

なお、以下写真は豊国神社の内部です。

たくさんのお坊さんたちがお経を読めるよう、とても広いスペースにしてあると考えられます。

ちょっと話は変わりますが、豊国神社という名前となったのは、建てられ始めた1587年から長い長い時を経て1872年のことです。

改名をするのと同時期に、豊臣秀吉を神として祀る神社となりました。

ところで、こんな大きな建物を重機なんていっさいない安土桃山時代に人力で建てるなんて、そうとうに大変そうですよね?笑

そんな重労働に取り組む人たちを支えたのが“太閤の力餅(以下写真)です。
※太閤とは秀吉のことを指しています。

当時、労働者たちにふるまわれていたのが太閤の力餅で、現在でも島内の一部飲食店のメニューとして提供しております。

豊臣秀吉 × 大聖院

大聖院には、天下統一後の豊臣秀吉から波切不動明王が奉納されています。

波切不動明王は秀吉が朝鮮出兵のとき、必勝・海上安全を祈願していた仏さまです。

日本国内で天下統一を果たし、結果として海外にまで目を向けた秀吉は、そうとうに熱心に波切不動明王に祈願をしたのではないでしょうか。

なお、現在も大聖院の勅願堂へ行けば波切不動明王のお姿をご覧いただけます。

また、豊臣秀吉は当時の大聖院にあった庭園をとても気に入り、和歌会をひらいています。

当時をイメージした絵図が大聖院の観音堂に掲げられています。

ちなみに、以下がじっさいに宮島で秀吉が詠んだ歌です。

ききしより ながめにあかね いつくしま
見せばやと思う 雲のうえびと

現代に生きる私たちと同じように、豊臣秀吉も宮島の美しさに感動したことがわかります!

まとめ

主に50歳代のとき、豊臣秀吉は深く宮島とかかわってきたことがおわかりいただけたと思います。

記事の内容を振り返ると、次のとおりです。

  • 戦没者供養のため、大経堂(現在の千畳閣)の建築をはじめる
  • 朝鮮出兵のとき、祈願をしていた波切不動明王を奉納する
  • 大聖院でたびたび和歌会をひらく

ぜひ、歴史好きな方は秀吉の軌跡をたどる宮島旅をしてみてください!

この記事を書いた人


ハマちゃん
宮島観光協会に勤続11年。
宮島島民にすらドン引きされるくらいの宮島オタクです笑
✅ もみじ饅頭のカタチを見ただけでどのお店かわかる
✅ 宮島のごはん屋さんの料理を見たらどのお店かわかる
✅ 休みは宮島で飲み会や登山をして遊んでいる
こんな僕が、便利に楽しく宮島旅できるよう情報をお届けします!