国宝・重要文化財
※ご不明点は、嚴島神社(☏ 0829-44-2020)へご確認ください。
推古天皇元年(593)、佐伯鞍職[さえきくらもと]によりご創建と伝えられています。
説は、色々ありますが、「いつき島にまつれる神」という意味から、「伊都伎島[いつきしま]神」、「厳嶋神社」等呼称され、現在は、「嚴島神社」となっています。
原始宗教のなごりで、島全体が神の島として崇められていましたので、陸地では畏れ多いと潮の満ち引きするところに社が建てられました。
造り | 寝殿造桧皮葺[しんでんづくりひわだぶき] |
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御祭神 | 天照大神[あまてらすのおおかみ]の子である宗像[むなかた]三女神 市杵島姫命[いちきしまひめのみこと]、田心姫命[たごりひめのみこと]、湍津姫命[たきつひめのみこと] |
平清盛が久安2年(1146)安芸守に任官され、平家の守護神として尊崇し、平家一門の権力が増大するにつれてこの社を尊崇する度合いも増し、社殿を現在の姿に造営しました。
都から後白河上皇、建春門院、中宮徳子、高倉上皇を始めとする皇族や貴族が訪れたので、都の文化や建築が宮島に入ってきました。
現在も嚴島神社に伝承されている舞楽は、清盛公によって大阪四天王寺から移されたものです。
社殿は、災害により何度か立て替えられていますが、清盛公が造営した当時の姿を伝えられているといわれています。
国宝・重要文化財の建造物は17棟3基・美術工芸55点など約260点。東廻廊45間、西廻廊62間。本社の他に客神社・朝座屋・祓殿・高舞台・平舞台・左右門客神社・火焼前・大国神社・天神社・能舞台・反橋・長橋・揚水橋・内侍橋の建物構造群からなっています。
東廻廊入口は切り妻造り、西廻廊入口は唐破風[からはふ]造りで、廻廊幅は約4m・長さ約260m・柱間約2.4m(8尺)・一間に8枚の床板が敷かれています。床板の隙間は、高潮時に床下から押し上げてくる海水の圧力を弱め、また廻廊に上がった海水を流す役目をします。
床板は、現在養生板が敷いてあり、本来国宝の一部である床板の上に敷いてあるところから土足で歩くことができます。
国宝
東側廻廊は47間[ま](柱と柱の間で、1間は約2.4m)、入口は切妻造りで、屋根は檜皮葺[ひわだぶき]で、棟には棟瓦が載せてあります。
西廻廊は、61間あり、西の端(出口)は、唐破風造り[からはふづくり]になっています。
昔は、西側が入口であったことがうかがえます。東西併せて約260mあり、1間・1間に釣灯籠が下げられています。
神社出口(唐破風造り)
神社入口(切妻造り)
床板は、1間に8枚敷いてあり、釘は使っていません。板と板の間は少し開いており、潮が高い時や台風時に波のエネルギ-を減免・消波する構造になっていて建物を守る工夫が行われています。(スリット構造)
この床板には釘が使われていません。また、床は二枚重になっていて、本来の床板は下にあるほうで、上に敷いてあるのは養生板(ようじょういた)といい、参拝者が土足で歩いても良いようになっています。これは近年になって施工されたもので、昔は履物を脱いで昇殿していました。
廻廊の釣灯籠は、毛利氏が鋳鉄製[ちゅうてつせい]のものを寄進したのが始まりといわれています。現在のものは、大正時代に奉納されたもので青銅製です。
国宝:平安時代
御本社と同様に、本殿・幣殿・拝殿・祓殿からなり、嚴島神社の祭典は、この客神社から始まります。
天忍穂耳命[あめのおしほみみのみこと]・活津彦根命[いきつひこねのみこと]・天穂日命[あめのほひのみこと]・天津彦根命[あまつひこねのみこと]・熊野櫞樟日命[くまのくすびのみこと]の5男神が祀られています。摂社の中でも一番大きく、嚴島神社の祭事のおりには、一番先に神職がお参りいたします。
天忍穂耳命は、天照大神の長子で、農業の神です。天穂日命は、天照大神の子で、農業の神です。天津彦根命は、日の神、雨の神、風の神、火難除けの神として崇敬されています。
祓殿[はらいでん]正面の海側の波除板[なみよけいた]が切れているのは、ここから下へ降りるための出入口の名残といわれています。
厳島八景の一
社殿東廻廊の海中にあります。(その他2カ所)潮が引くと丸い池が現れます。
※厳島八景:1715年、光明院の僧恕信の発案により、厳島の景勝八カ所が選定されました。
国重要文化財
屋根は、東が切妻・西が入母屋造りで、三方に廂[ひさし]の間があり、寝殿造りの対の屋の特徴が見ることができます。昔は社家[しゃけ]・供僧[ぐそう]・内侍[ないし]が祭典・会合の折に集まったところです。
客神社祓殿[はらいでん]と廻廊で囲まれたところを、枡形といいます。毎年旧暦6月17日に行われる「管絃祭」で御座船や阿賀・江波の曳船がここで船を3回廻します。
廻廊に大勢のお客様が陣取り、管絃祭のクライマックスを迎えるところです。
国重要文化財
特徴は「桟の間」という中央に出っ張りがあります。ここから潮を汲み上げる儀式があったといわれています。
揚水橋の下に、鏡池があり、その中の石を卒塔婆石と呼んでいます。
約800年前に、京都鹿ヶ谷[ししがたに]で平家滅亡を企てた罪により、僧俊寛・藤原成経らと共に鬼界ヶ島に流された平康頼が、京に住んでいる老母を偲んで2首の歌を千本の卒塔婆に書いて流し、その内の1本がこの石の所へ流れ着きました。
「思いやれしばしと思う旅だにも 猶故郷は恋しきものを」
「薩摩潟沖の小島に我ありと 親にも告げよ 八重の潮風」
丁度嚴島神社に参拝に来ていた僧によって都に伝えられ、程なく康頼は帰京を許されたと平家物語に伝えられています。
帰京を許された平康頼が厳島大神に御礼のために奉納したもので、宮島の中で一番古いものです。
国宝
嚴島神社にお仕えする巫女を内侍[ないし]といいました。昔はこの橋を内侍が渡って、神饌をお供えしていたので、内侍橋と名付けられたと言われています。御本殿拝殿への両側に1基ずつあります。
本殿・幣殿・拝殿
祓殿
御本社は、それぞれ国宝に指定されていて、ご祭神は、市杵島姫命[いちきしまひめのみこと]・田心姫命[たごりひめのみこと]・湍津姫命[たぎつひめのみこと]の宗像三女神[むなかたさんじょしん]です。ご本殿は、三女神のほかに30柱の神様が相殿[あいどの]されています。
広さは、正面8間・背面9間・梁間4間で、床面積は出雲大社の2倍の大きさといわれます。御祭神の三女神は、海の神・交通運輸神・財福の神・技芸の神として信仰されています。平清盛は、瀬戸内の海賊を平定し、海運業者を支配し、日宋貿易によって莫大な財を築き、急速に昇進しました。瀬戸内や宋との交易船の航海安全を祈るため、また瀬戸内海航路の要衝であった厳島を篤く信仰いたしました。
明治維新までは、厳島弁財天もお祀りしてありましたが、神仏分離令により、現在は、大願寺にお祀りしています。
幣殿[へいでん]は、幣帛[へいはく](神前に供える物の総称)を供える施設です。
拝殿は、参拝者がご祭神と向き合い、お祓い・参拝する施設です。拝殿の下から見上げると棟が2つ見えます。その上を一つの棟で覆っています。これを三棟造りといい、奈良時代の建築様式といわれています。大鳥居からの距離は、百八間(約196m)といわれます。
祓殿は、お祓いをするところで、管絃祭の時に鳳輦[ほうれん](御輿)が置かれる場所であり、また雨天時の舞楽奉奏などに使われます。
また、昭和16年頃、米相場が統制されるまでは2月にここで米相場が立っていました。
床板は、明治になり楠で浅野藩の藩船厳島丸の板が使用されています。
国宝:平安時代
舞楽が舞われる舞台です。
舞楽とは、楽による舞踊のことで、陵王・振鉾・萬歳楽・延喜楽・太平楽・抜頭など十数曲が、今なお嚴島神社で舞われます。
この舞台は、天文15年(1546)棚守佐伯房顕[たなもりさえきふさあき]が、高舞台の擬宝珠[ぎぼし]を奉納したことがわかります
高舞台は、四天王寺の石舞台・住吉大社の石舞台と共に日本三舞台といわれています。
国宝
高舞台に対し平らなところを平舞台といいます。
寝殿造りでいえば庭にあたるところで、束石は赤間石で毛利元就の寄進といわれています。
国宝
火焼前[ひたさき]をはさんで左右にあり、ご祭神は豊石窓神[とよいわまどのかみ]・櫛石窓神[くしいわまどのかみ]です。
平成3年の台風19号・平成16年の台風18号で能舞台・高舞台・平舞台と共に大きな被害を受けたところです。
国宝
国宝で、舞楽のある時に楽を奏するところです。左右ありますが、舞楽には二つの流れがあり、インド・唐から伝わったものを左の舞といい、左舞[さまい]を舞うときは左楽房で奏します。
満州・朝鮮半島から伝わったものを右の舞といい、右舞[うまい]を舞うときには右楽房で奏します。
舞楽は、平清盛によって四天王寺から約820年前に伝えられたもので、嚴島神社で見ることができます。
国重要文化財
通称:だいこくさん
御祭神:大国主命[おおくにぬしにみこと]
大国主命は、国造りの神・農業神・商業神・医療神・縁結びの神です。
大国主命は、田心姫命と結婚していますので、御本社に近い場所にお祀りしているといわれます。
一段高い拝殿の右側が、昔、神饌の仮案所で、ご本社裏の御供所[ごくしょ]から運ばれてきた神饌をここに置き、ここから先は、内侍が運びご本殿にお供えされました。
国重要文化財:祭神は菅原道真公
学業の神様です。
ご創建は、弘治2年(1556)毛利隆元によって寄進されました。
能舞台と同じく、素木(丹が塗っていない)なのは、社殿群の中では新しい建物で、時代が下がるためです。
古くは連歌堂[れんがどう]といい、明治時代の初めまで毎月連歌の会が催されていました。
国重要文化財:桃山時代
長さ33m、幅3m、橋脚は赤間ヶ石
ご本社裏の御供所[ごくしょ]から神饌が運ばれるときに使われていました。束石に赤間石が使われていて、毛利氏が奉納したものです。
明治の探検家、松浦武四郎(1818~1888)は天神信仰に篤く、全国の天神社25カ所を参拝し、「聖跡25拝」の石碑と鏡を奉納しました。
嚴島神社には、長橋の陸側に、明治17年(1884)に奉納の石碑があります。松浦武四郎は、北海道を命名した人です。
国重要文化財
別称:勅使橋[ちょくしばし]・たいこばし
長さ約24m、幅4m、高欄は丹塗り・橋脚は墨塗り
鎌倉期に既にあったが、現在のものは弘治3年(1557)毛利元就・隆元父子により再建されたものです。
別名、勅使橋ともいい天皇からの使者(勅使)だけがこの橋を渡ることができました。
中央に階段を設けて渡ったものと思われます。
国重要文化財:切妻造・桧皮葺
永禄11年(1568)毛利氏は、観世太夫を招き、仮の能舞台を海中に設けさせ、能を奉納しました。現在の建物は、延宝8年(1680)広島藩主浅野綱長により改修されたもので、天神社と同じく、建造時期が下がりますので、丹塗りはしていません。
特徴は、日本で唯一海中に建てられている。切り妻造りであり、笛柱が独立している。
海中にあるため、通常床下に共鳴のために置かれている甕が無いことです。代わりに、床下の根太が三角形で、その上に床板を張り、大きく響くように工夫されています。
毎年4月16日から3日間桃花祭神能が行われ、初日と2日目には、初めに翁が舞われ、3日間とも五番立で、間に狂言が入り、江戸時代からの本式な演能を観ることができます。
平成3年の台風19号で倒壊いたしましたが、古材をできるだけ使用し、平成6年に再建されました。